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第62期 遊史会62ND HISTORY CLUB

第14回 塩野七生著「ローマ人の物語」のすすめ

第14回 塩野七生著「ローマ人の物語」のすすめ

日時:11月17日(金) 於:BAR ADEL

 11月17日(金)、BAR ADELにてシングルモルト研究会と遊史会を合同で開催いたしました。遊史会の開催は本当に久しぶりでおそらくは2年ぶりではなかったかと記憶しています。当日はシングルモルト研究会尾河会長より日本、アイルランド、台湾の三種のお酒が用意され、総勢11名が三種それぞれの味わいを堪能しました。好みは分かれたようですが、気候、風土ともにウイスキー造りに向かないと思われる台湾の「カヴァラン」の評価が高かったように感じました。ほどほどにお酒が回ったところで、ミニ遊史会として塩野七生著「ローマ人の物語」という著書を居並ぶ参加者たちに紹介させていただきました。ライオンズクラブ国際協会の理念が共和制時代のローマにあるような話を入会当時に聞いたこともあり、以来20年以上にわたり愛読してきた著作ですが、思えばクラブの理事会は共和制ローマの「元老院」に近く、「市民集会」はいわば「例会」に相当するのだろうと感じたりしています。今後もこの二つの同好会は合同で行うことが多くなってくると思います。是非このたび参加できなかった会員の方々もおいしいお酒を酌み交わしながら、アカデミックなひと時を過ごしてみてはいかがでしょう。遊史会幹事長 廣畑 雅弘 記

第59期 遊史会59th HISTORY CLUB

第13回 かわぐちかいじ原作「空母いぶき」鑑賞会

モデルとなったいずも型護衛艦

9月28日(月) 於:萩ツインシネマ

去る9月28日(月)、今期初、通算13回目の遊史会を開催いたしました。このたびは遊史会初の試みとなる映画上映で、かわぐちかいじ原作の「空母いぶき」を参加者全員で鑑賞しました。本上映会は会員の柴田さんが管理する萩ツインシネマのご厚意で実現したもので、当日はPM6:00から缶ビール片手に食事を済ませた後の上映開始となりました。本作品は新型護衛艦の艦長と副長、また政治家とジャーナリストという思想信条の相違を対立軸にし、互いに認められる部分とそうでない部分、さらにはそれら全てを乗り越えて、切迫する事態へいかに対処するかがメインテーマとなっており、我が国の防衛はどのようにあるべきかを問いかける内容となっています。「やらなければやられる。」という切迫した事態の際に現場で悠長な議論などしている場合か!といった場面も多く見受けられ、さすがにやはり映画だな…と思わせる部分は多々ありはしましたが、海上自衛隊、航空自衛隊の最新鋭兵器の数々をCGとはいえ、迫力ある音と映像で見せてくれたのはメカに弱い私でもかなり楽しめた作品と言えます。遊史会では歴史のみに限らず、今後多くのテーマに沿った講演や、こうした上映会を開催してゆく予定でおります。今後ご自身の興味のあるテーマが提示された際には是非ご参加ください。 遊史会 幹事長 廣畑 雅弘
*右上の写真はモデルとなったいずも型護衛艦の勇姿

第58期 遊史会58th HISTORY CLUB

第12回 「笠山・越ヶ浜物語 〜ジオから歴史まで〜」

第12回遊史会

日時:9月13日(金) 於:茶寮 花南理の庭

去る9月13日(金)、今期初となる遊史会が開催されました。このたびは入会間もないL馬屋原が「笠山・越ヶ浜物語 〜ジオから歴史まで〜」と題し、ご本人が経営される「茶寮 花南理の庭」にて行われました。まずは萩随一のパノラマビューを誇る笠山の話ではジオ的な視点も絡めつつ、山頂までの登山道を私費で開設した越ヶ浜出身の都野豊之進(つのとよのしん)の業績を語って頂きました。私自身、この人物のことは全く知らなかったので毎回越ヶ浜へ釣りに行っている身として申し訳ないような気持になった次第です。また江戸期にはお城から見て笠山は鬼門(北東、丑寅の方角)にあたるため、笠山では樹木の伐採や鳥獣の捕獲が禁止され、そのおかげで結果的に椿の原生林が残ったという話も初耳でした。この他に明神池や越ヶ浜村落自体のお話は大変興味深く、特に越ヶ浜には昔から水(川)がなく、松陰先生の兄、杉民治によって県内初の水道「休労泉」が引かれたお話などは、インフラの無い時代、如何に人々の生活が大変であったかを物語るものでしょう。遊史会幹事 廣畑 雅弘
「笠山・越ヶ浜物語 〜ジオから歴史まで〜」  馬屋原 務本 第58期青少年健全育成委員 
 令和元年9月13日(金)18:30〜 於:茶寮 花南理の庭(江向)
明神池  笠山からのパノラマ 
 (1)明神池 (2)笠山からの日中のパノラマ
都野父子の顕彰碑
(3)笠山からの夕景 (4)都野父子の顕彰碑  

1 笠山

「伸びる港の 姿を見つつ たのしドライブ 笠山登山 逢ふて嬉しや 明神様の 池の面に アノ躍る魚」、これはかつて唄われた萩小唄の一節。越ヶ浜の漁港を通り笠山へドライブ、その途中、風光明媚な明神池(写真1)を歌っている。笠山から越ヶ浜一帯は、昔から観光スポットだった。萩一番のパノラマビューと言えば、笠山からの日本海の展望だ(写真2)。標高100m余りの小山だが、1万年以上前の噴火でできた溶岩台地に後でできたスコリア丘と呼ばれるプリンのような火山がのっかる。その形が平安の昔の女性のかぶる「市女笠」に似ていることから笠山と呼ばれているが、立派な活火山である。低山であるが頂上からの眺めは「絶景」の一言。萩沖の島々や萩湾・菊が浜・指月山さらに北長門の海岸線が一望できる。日本晴れの日のどこまでも見渡せるパノラマはもちろん横綱だが、春霞の中に浮かぶ茜色に染まった夕日の海は、心のまぶたにしまっておきたいイッピンである(写真3)。「照らす日の 色や浜地の 夕霞」、昔の文人の俳諧をご紹介しよう。しかし、この笠山のパノラマも、山ができた1万年前は、海面が今より40mも低く、沖の大島あたりとは陸続き。さらに数万年前の海面はもっと低く、他の島々とも陸続き、しかも笠山のように火山として誕生ししつつある時代であることを考えると今と全く違った眺めであった。そうしてみると現在は楽園である。この楽園を世に出したのは、越ケ浜出身で工部大学校(現東京大学工学部)卒業の都野豊之進(つのとよのしん)である。彼は、私費を投じて笠山山頂までの登山道を開設し、それを子どもの正一が萩市に寄付して今日に至っている(写真4)。江戸時代の楽園は、様子が少し違う。毛利氏が萩に移ると、笠山の南西方向の指月山のふもとに萩城を構える。昔は日本独特の風水の考え方で、お城から北東の笠山の方角は、鬼が出入りする不吉な方角とされてしまった(写真5)。おかげで樹木の伐採や鳥獣の捕獲が禁じられ、椿の原生林が誕生する。また、鳥獣のうち猿は鬼門よけとして保護されたため、「お犬様」ならぬ「お猿様」として藩の保護を受け、笠山だけでなく麓の越ヶ浜の浦にも姿を見せた(写真6)。
菊ヶ浜(指月城)から見た笠山  笠山から望む越ヶ浜 
 (5)菊ヶ浜(指月城)から見た笠山(方角:北東) (6)笠山から望む越ヶ浜
 三条実美歌碑
(7) 三条実美歌碑

2 明神池

歌に「逢ふて嬉しや 明神様の 池の面に アノ躍る魚」とある明神池は、魚の躍る池だが、住んでいる魚は、タイやスズキと言った海にすむ魚である。明神池は、笠山と本土をつなぐ砂州に端が埋め残されたところが池になったもので、海とつながっている。そこで、江戸時代には、毛利のお殿様がこの池の端に御茶屋を設け魚料理と風景を楽しんだ。そこで池も「御茶屋の池」といった。幕末、七卿落ちで京都を追われた三条実美が、毛利敬親の招きで御茶屋に遊び、泳ぐ魚をみて、「この国の濁らぬ水にすむ魚は 游ふさまさへ勇ましきかな」と討幕に向かう長州藩をふるいたたせる歌を残している(写真7)。明神池の北畔には、「厳島神社」がある。厳島神社と言えば宮島であるが、この神社は毛利氏と深いかかわりがある。毛利元就が、当時山口を支配していた陶氏を「厳島の戦い」で滅ぼし中国一円支配の基礎をつくる。元就は、戦いの勝利と戦の血で神の地をけがしたことを深く悔い、毛利家の繁栄には厳島明神の信仰を抜きにしては考えられないと子どもたちに諭している。こうして、萩に移ったのちも厳島明神の信仰は大切であるとして、第三代藩主綱廣の時に明神池のほとりに神社を勧進する。萩城の東北、鬼が出入りする不吉な方角、鬼門の守り神の意味もあった。厳島神社の後ろには、天然のクーラー「風穴」があり、夏などは特に観光客を喜ばせている。風穴は、笠山の溶岩の隙間の冬の間にたまった暖かい空気(外気は冬の間は冷たい)が、夏の間に吹き出てくるもので、古の貴人たちも、神社の参拝がてら涼んだのではないか。風穴の周辺には、コタニワタリやホソイノデといった寒いところに自生する植物を見ることができる。
「巫女(みこ)の舞」 
(8)「巫女(みこ)の舞」  (9)「休労泉」記念碑

3 越ヶ浜

 越ヶ浜の町が開かれたのは、江戸時代の延宝三年(1674年)に長州藩の代官所がおかれてからのこと。これを契機に民家ができはじめ、浦(漁村)としての体裁をとるようになったのである。もともと越ヶ浜は笠山と本土を結ぶ砂州が発達してできた土地である。かつては、高波が襲うと砂州を越えることもあったのか「打ち越しの浜」と呼ばれたそうだ。漁船も60隻程度いたそうだが、魚の取引は浜崎で行った。
しかし動力のない江戸時代、風と潮流に頼る回船交通が盛んになると、水深の浅い浜崎を避けて次第に越ヶ浜に回船が寄港するようになる。笠山のふもとの越ヶ浜は、河川はないものの日本海側に「嫁泣湾」、南に「夕なぎ湾」を擁す天然の良港なのだ。回船には、幕府の年貢米を回送する大型のものや、北方の海産物などを商う北前船などがあった。町には、「米屋」「浜屋」の他に、「越前屋」「和泉屋」といった取引先を示す屋号(門名)などの家が残っている。中には、何やら怪しい「豆屋」といった屋号も残っているそうである。他国の人が越ヶ浜で亡くなると、町中にある中善寺に葬られた。町の中ほどの「夕なぎ湾」に面したところには、「御旅所」がある。旧暦6月17日の夜に行われる明神池の畔にある厳島神社の「管弦祭」では、萩城の「志都岐神社」に向かってここから神輿が出発していた。「管弦祭」の見せ場は、京の貴人の遊びをまねた「巫女(みこ)の舞」(写真8)だ。萩沿岸の神々を鎮める巫女の舞姿は、厳島神社と越ヶ浜の町の繁栄から生まれた華の舞である。文政五年(1822年)夏に、日本にはじめてコレラが流行した。対馬の方から感染が広がったと言われたコレラは、北廻り船の寄港地であった越ヶ浜を直撃し、死者は記録によると32人に達した。その際、得体のしれない流行病の撲滅のために行者が祈祷した場所が「行者様」として残っている。その後2度流行し幕末の長州藩はさらに混乱の渦に巻き込まれるが、藩医の青木周弼・研蔵兄弟により治療が行われる。また、兄弟は種痘による天然痘の予防にも尽力する。幕末の長州藩は、洋学を積極的に取り入れ「科学技術の振興」を図った。倒幕だけでない維新の別の顔を見ることができる。維新と言えば吉田松陰だが、松陰の兄・杉民治によって水のない越ヶ浜に明治元年(1868年)「休労泉」(写真9)という名の山口県内初の水道が引かれた。名前からして川のない越ヶ浜の人が水に苦しんだことがわかる。

第57期 遊史会57th HISTORY CLUB

第11回 「イージス・アショアとステルスの基礎知識」

第11回遊史会

日時:10月16日(火) 於:クラブ事務所

10月16日(火)萩LC57期の最初の遊史会講演会が尾河会長自ら講師となって行われました。題目はイージスとは何か、ステルスの動向ということで自衛隊オタクの尾河会長らしくイージスアショアの詳細な説明と発達し続ける兵器の様子などの話に盛り上がりました。尾河会長は凄く詳しくて話の途中で尋ねられる質問に答えられないものはありませんでした。凄かったです。ただしこの話はむつみに導入の賛否を問うものではありませんのでその点はご了承ください。この日は他の同好会の開催もあり、いつもより少な目の参加数でしたが、あとの食事会をシングルモルトの会と兼ねており、服部会員のご子息の参加もあり、これまた美味しい酒と料理で大変盛り上がりました。遊史会 会長 椙本 久繁

第56期 遊史会56th HISTORY CLUB

第10回 高杉晋作没後150年 「晋作の足跡を追って上海へ」

第10回遊史会第10回遊史会

日時:8月29日(火) 於:クラブ事務所

去る8月29日(火)、クラブ事務所において通算10回目となる遊史会が開催されました。今回は会員の福永L.が「没後150年 晋作の足跡を追って上海へ」と題して講話して頂きました。始めにご自身で訪れた際に撮られた写真や幕末当時の上海の古地図等を見せて頂きながら文久二年に高杉晋作が逗留した際に訪れた各所を説明されました。その後は当時の武士階級の基礎的教養である「朱子学」におよび、その「朱子学」を克服することによって成し遂げられた「維新回天」、さらに今何かと騒がしい萩明倫学舎への孔子廟移設に至るまで大変興味深いお話を拝聴いたしました。「朱子学」の功罪については歴史的に様々な議論がなされていますが、高杉晋作自身、功山寺決起後、井上聞多に宛てて「朱子学で戦はできぬから…」と書き送っていることも、彼自身が上海で西洋列強の底力を間近で体験したことから来ていると私は思います。確かに幕末の「尊王攘夷」思想そのものはまぎれもなく「朱子学」からきていますが、「頑迷固陋」と言っても良いこの思想のため、一時長州藩自体が滅亡の淵にまで追い込まれたことも事実です。現代に生きる我々は思想が持つ力というものを決して軽視してはならないということを再認識させられた大変面白い講話だったと思います。
遊史会幹事長 廣畑 雅弘

遊史会番外編 福永L.による寄稿文2種

福永L.寄稿文表紙

@…逆説の長州史「重建明倫館と晋作が見限った朱子学」
A「花燃ゆ」に誘われて…初秋の「ニュー・イングランド」ドライブ紀行

今期8月に第10回遊史会にて「没後150年 晋作の足跡を追って上海へ」と題して講話して頂きました福永L.から2種類の寄稿文が寄せられました。両寄稿文ともに大変興味深く、一読の価値のあるものと思いましたので広く会員の方にも読んで頂きたく、本ページにてそのPDFファイルを閲覧・ダウンロードできるようにいたしました。前回の遊史会に参加された方々も、参加できなかった方々も是非一度お読み頂きたく存じます。閲覧・ダウンロードは下段のタイトルを左クリックしてください。
下段の@、Aのいずれかのタイトルを左クリックしてください。
@ ・・・逆説の長州史「重建明倫館と晋作が見限った朱子学」
A 「花燃ゆ」に誘われて・・・初秋の「ニュー・イングランド」ドライブ紀行

第55期 遊史会55th HISTORY CLUB

第9回 「長州藩はなぜ近代化の旗手と成り得たのか?」

第1回(通算9回)遊史会

演題:「長州藩はなぜ近代化の旗手と成り得たのか?」
講師:森本文規氏(幕末長州科学技術史研究会・事務局長)

9月21日(水)、今期初、通算第9回目の遊史会がクラブ事務所にて16名参加で開催されました。今回は講師として「幕末長州科学技術史研究会」の森本文規氏を外部講師としてお招きし、長州藩が明治初期の我が国近代化の旗手と成り得た秘密を紐解いて頂きました。これまでは漠然としか理解していなかった萩藩の反射炉や大板山たたら遺跡の役割等が実によく理解でき、幕末から明治にかけての長州藩が近代化の旗手たり得たのは軍事的側面のみならず、海外からの技術吸収欲が旺盛で長州ファイブ以外にも実に多くの留学生を派遣していることなど、普段我々が「知ってるつもり」になっていたことを改めて認識させてくれるお話でした。折しも「明治近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産に登録された萩市内の遺跡・遺構についての思いが今回のお話で再認識される良い機会となりました。今後も遊史会は歴史を学ぶことによって「知性」を高め、歴史を個人的、公的を問わず活かし、人生の糧とできるような同好会として参りたいと思います。廣畑 雅弘

第54期・遊史会54TH HISTORY CLUB

第7回 萩藩初代藩主毛利秀就公出生秘話

第1回遊史会参加メンバー第1回遊史会講話風景1第1回遊史会 講師廣兼L.(中央)
去る10月8日(木)、長らく途絶えていた遊史会が久しぶりに開催されました。今回は前53期会長の廣兼L.にお願いして「萩藩初代藩主毛利秀就公出生秘話」と題するお話をして頂きました。正史では毛利輝元の長男として広島で生まれたとされる秀就公ですが、その出生には驚くべき秘密があり、「古老物語」、「防長風土注進案」などの史料を元に解き明かすというものでした。毎度のことながらその詳細についてここで語るわけにはいきませんが、ひとつだけ語るとすれば輝元公(秀就公の父)という人は決して褒められるような人格の大名ではなかったのだな・・・ということです。もちろん現代とは時代が違いその常識も違うわけですが、仮にその時代の常識に当てはめて考えたとしても酷い話です。本会の2,3日後に斎藤L.の引き合わせで今回の悲劇の主人公の一人「久芳の局」の子孫ではないかという方と廣兼L.はお会いしたそうです。更に弊社で現在、土地売買の媒介をお世話させて頂いているお客様にも同名の方がおられ、何かこのたびの遊史会は萩ならではの後日譚まで付いてくるという大変感慨深いものでした。「歴史とは人類の行動のデータ・ベースである。」と言われます。今後とも同会はライオンズクラブ会員必須の「知性」を磨くため、歴史に学ぶことを推し進めます。遊史会幹事長 廣畑 雅弘
通算第7回遊史会・資料写真
「久芳の局」の墓 秀就公生誕の碑 二の丸様顕彰碑
「久芳の局」の墓
当初輝元公の野望のために働き、その後いわゆる「口封じ」のため成敗されたとされる「久芳の局」の墓。現岩国市錦町深龍寺
毛利秀就公生誕地の碑
下の小野村阿武瀬(現宇部市小野)に残る秀就公生誕の碑。この阿武瀬の地には秀就公がつかったとされる産湯の池なども残されている。
二の丸様(秀就公生母)顕彰碑
数奇な運命に弄ばれ、薄幸な一生を送った秀就公の生母、二の丸様を祀った顕彰碑。下の小野村阿武瀬(現宇部市小野)

第8回 教科書では教えない哲学史

54期第2回遊史会

古代ローマのルクレティウスから近世オランダのスピノザ、近代ドイツのニーチェを経て現代アメリカのスティーブ・ジョブズへ

去る2月26日(金)クラブ事務所にて通算第8回目となる遊史会が開催されました。今回は我がクラブ期待の新会員、L井上による「教科書では教えない哲学史」と題して古代ローマのルクレティウスから近世オランダのスピノザ、近代ドイツのニーチェを経て現代アメリカのスティーブ・ジョブズへとつながる思想の系譜を語って頂きました。私も常日頃、哲学について思いを馳せることなどは皆目無かったわけですが、古代ローマ時代のルクレティウスの哲学の一部が脈々と現代にまで受け継がれているのだということは大変良く理解できた講話でした。古代ローマについては少々勉強していると自負する私ではありますが、哲学の事となるとあまりにも勉強していなかったことに気付かされました。西洋哲学史はその後キリスト教の影響を受け、紆余曲折を経て現代に至るわけですが、私自身の感想は如何にキリスト教のくびきから逃れ、自由な思想を手に入れるかの闘争の歴史ではなかったかと思う次第です。それはすなわちキリスト以前の人間中心主義の古代ローマへの原点回帰に近いのではないか…そんなことを考えさせられたお話でした。今後とも遊史会は歴史を通して楽しく社会を、そして人間を学ぶ場にしたいと考えております。
遊史会幹事長 廣畑 雅弘

第52期・遊史会52nd HISTORY CLUB

第6回 「商 VS 武 限りなき戦い」

第6回遊史会

経済をにぎる商人と政治をにぎる武士との抗争史

1月25日クラブ事務所において13名の参加を頂いて第6回目の遊史会の講演会を行いました。歴史を楽しんで学んじゃおうよということで、今回は当同好会事務局長(当同好会講師のエース)L廣畑に「商 VS 武 限りなき戦い(経済をにぎる商人と政治をにぎる武士との抗争史)」と題して、年の暮れから正月休みも返上して自主製作した話をしてもらいました。江戸時代8代将軍吉宗のころから江戸期260年間の話で、時の商人は世界的に見ても比較的近代的な商いを展開してインフラ整備や災害復興のようなボランティアなども行い、それが巡り巡って市場の拡大、長く商売を続けるためのメリットとなって益々財を成してゆきました。一方、武である幕府は百姓から年貢をしぼるばかりで天領での一揆が絶えませんでした、そこで経済の立て直しに起用されたのが老中田沼意次でした。時代劇では可哀そうなくらい悪代官の代名詞のようにされていますが実際にはそうではなかったようで商人からの税収に目を付けるなど結構良い政策をおこなっていましたが、不運にも岩木山、浅間山の同時噴火による「天明の大飢饉」で結果を出せなかったため幕府はますます疲弊してゆきました。内容はこれ以上書けませんが、なしてそねぇなったそか の見解がわかりやすく述べられていて大変面白い話でした。これは是非もう一度今回聞けなかった人の為にもリバイバルしたいと思います。面白いネタがどんどん出てきますので次回以降も乞うご期待下さい。遊史会 会長 椙本 久繁 記

第51期・遊史会51st HISTORY CLUB

第2回 「萩市各所の地名由来。その歴史的、地政学的起こりと発展」

去る9月15日(土)、第2回遊史会をクラブ事務所で開催いたしました。前回の開催からかなりの月日が経過しており、本同好会の存在もクラブ内でかなり薄くなってきたことに危機感を抱いての開催です。今回は満を持してクラブ会員の中から廣兼L.に講師を引き受けて頂き、萩市の地名由来として古代から中世にかけての地政学的、歴史的な由来を紐解くという講話でした。洪積世・沖積世の地殻変動による阿武川の起こりから始まり、弥生・古墳時代の集落跡からどの地域に早くから人が住んでいたか・・・、萩地域の古い神社仏閣の開山縁起を調べるとほとんどが平安時代の大同年間に集中していること・・・、圧巻は平安〜鎌倉時代にかけての萩地域の豪族の栄枯盛衰で、山陰の片田舎も歴史の大きなうねりとは無縁では無かったのだということを改めて実感させられ、とても興味深く拝聴いたしました。この文章では具体的な考証自体には触れませんが(参加したクラブ会員のみの特権なので)、歴史を学ぶということは同時に人間社会を学ぶことなのだということを特に若手会員の皆様にも知って頂きたいと強く思いました。廣畑 雅弘 記

第3回 「現代竹島問題のルーツ、『元禄 竹島一件』」

第3回遊史会1第3回遊史会2
10月27日(土)第3回目の遊史会(歴史や史実から楽しく学び自由に考える同好会)の講演会が開催されました、19名のご参加ありがとうございました。今回は現在非常に難しい日韓国際問題となっております竹島問題について、昔のいきさつを我が遊史会のスタッフの廣畑Lが物申すということで満を持しておおいに語ってくれました。それは元禄時代の竹島一件という話で、江戸幕府が鳥取藩の大手漁業者の大谷、村川両家が現在の竹島を中継地にしてもっと韓国に近い鬱陵島(無人島)でアワビやアシカを獲る操業(渡海)許可を出していたことからはじまり、その後の経過と自分の見解(日本人はお人好しな民族であるなど)を発表した話で、おかげで皆さんそれぞれに見解を持っていたようであとの食事の時も盛り上がりました。次回は25年1月下旬に外部講師による吉田松陰先生のお話しを予定しております、乞うご期待下さい。
遊史会 会長 椙本 久繁 記

第4回 「憂国の旅人 吉田 松陰」

第4回遊史会
去る1月18日金曜日、第4回遊史会が開催されました。今回は市内屈指の吉田松陰先生研究家として知られる中野隆昌さんを講師にお迎えして「憂国の旅人 吉田 松陰」と題しておよそ40分間お話して頂きました。若くして萩藩の山鹿流兵学師範となり、九州への「兵学見聞」、東北地方への「海防見聞」から始まった松陰先生の生涯はまさに「旅」の連続であったと改めて思わされたお話でした。ひとくちで「憂国の心」などと言うは容易いことで、現代の社会でいったい誰が我が命も顧みずに国のために奔走できるのか?そして国に殉じて命を落としてゆく・・・、そこには現代人が忘れてしまった「何か」を持っていた幕末の人々の心を垣間見ることが出来ます。現代社会では独りよがりで身勝手な犯罪が多発しており、己の非を他者に転化し、他者をも大勢巻き込んで目を覆うばかりの被害が出ると言った犯罪者が後を絶ちません。「公」を愛し、「公」のために殉じた松陰先生やその弟子たちとの違いがここにはっきり見て取れます。現代社会では「私」のみを愛し、「私」のために他者をも巻き込む・・・。この違いを我々はもっと噛みしめるべきではないか・・・、そんなことをとても強く感じたこのたびのお話でした。遊史会では今後とも魅力ある企画をどしどし行ってゆく所存ですのでお時間の取れる会員の方は今後ともぜひ振るってご参加ください。
遊史会幹事 廣畑雅弘 記

第5回 「萩焼の入門の入門」

第5回遊史会1第5回遊史会2
去る6月14日(金)、クラブ事務所にて今期最後となる遊史会が開催され、総勢14名が参加しました。今回は会員講師として白田L.に「萩焼の入門の入門」として萩焼のみならず「日本のやきもの」全般についてお話して頂きました。「やきもの」の定義から始まり、その種類、そしてその歴史、さらに日本各地のやきものの産地等を経た後に「萩焼」の歴史に及びました。なにしろ縄文土器からすでに日本では「やきもの」の歴史は始まっており、世界各地に「やきもの」は多々あれど、おそらくこれほど古い歴史を持つものはそうは無いのではないかと思われました。さて、本題の萩焼ですがその歴史的な起こりから萩藩の御用窯として開かれた「窯薪山御用焼物所」の開窯に話は及び、江戸期を通じての県内各所での開窯や閉鎖を経て明治以後から近現代における美術工芸品としての地位を獲得した「萩焼」の変遷が非常に良く分かりました。「灯台下暗し」とは良く言いますが、萩市に住みながらこれまで「萩焼」については通り一遍等な知識しか持ち合わせていなかった自分に恥じ入るばかりでした。参加された他の会員の皆様もおそらく同様ではなかったか?と思う次第です。遊史会ではこれからもどんどん歴史に絡む興味深いお話を会員講師、または外部講師をお招きして皆様へお届けする所存です。まだ一度も参加されていない会員の方々もお時間の許す限り、是非ともご参加くださいませ。遊史会 幹事 廣畑 雅弘 記

第50期・遊史会50th HISTORY CLUB

第1回 航空自衛隊見島分屯基地指令 波多野二等空佐講演会

第1回遊史会1第1回遊史会2
去る12月10日(土)、我がクラブ唯一の知的同好会、「遊史会」を開催いたしました。記念すべき第一回は航空自衛隊 第17警戒隊長 兼(かねてと読む) 見島分屯基地 二等空佐 波多野 健指令をお招きして「わが国を取り巻く軍事情勢と日本人の誇り」という演題にておよそ2時間弱の講演をして頂きました。会場となった萩LCの事務所には事前応募にて集まったクラブ会員が16名ほど来場。机、椅子などの配置を教室風に変更してノートPCやプロジェクターを駆使しての講演が始まりました。最初の「わが国を取り巻く軍事情勢」ではさすがに日々我が国の防衛に心を砕いている自衛隊ならではの実に興味深いお話が聞けました。詳細は割愛しますが、ひとつだけ言える事は決して我が国は安全な国家ではないと言うこと。おそらく話を聞かれた他の会員の皆さんも同じお気持ちになられたことでしょう。そして次の「日本人の誇り」についてはDVD作品「凛として愛」というドキュメンタリー映像を鑑賞。この作品には大東亜戦争にて散った多くの英霊に捧げるもので、彼らがどのような思いで戦地に赴き、そして散っていったのかを改めて考えさせられる内容となっています。戦後のGHQの占領政策や東京裁判史観によって踏みにじられた多くの英霊たちの祖国への思い。今後日本人が日本人として生きてゆくためには何が必要か?戦前の日本人と今の日本人の違いとは?問い直さねばならない問題がこの作品には詰まっています。本作品は波多野指令のご好意により萩LC遊史会へ寄贈されましたので、鑑賞ご希望の会員の方には貸し出しますのでお申し出ください。講演終了後は参加者ほぼ全員が集まり波多野指令を囲んでの会食。程よくアルコールが回ると口も良く回り始め、皆一様に国士風の面構えで熱く議論を戦わせていました。次回遊史会は今年の4月過ぎ頃を計画しております。乞うご期待。
遊史会執行部 廣畑 雅弘 記

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